『ソフィア』西村陽一郎

2010/9/3→10/2 ギャラリーパストレイズ(横浜)

 『LIFE』という写真集を出版した1999年、花の隅々まで神経を使い、繊細な写真を制作する人といった印象のあった西村陽一郎さんの作品展『ソフィア』があった。私にとっては、2009年、新宿にあったカフェ・ユイットであった『発光』以来である。『発光』は、光の跡を画像としてとどめようとするシリーズである(このカフェは2009年6月で閉店)。

 画面には、暗闇の中に光の筋が流れている。その光の主はホタルで、西村さんが住まうところの近くにいたホタルをコップの中に入れたものである。暗闇の中に放たれたホタルの光は、コップの中を飛んだり歩き回り、光を放つ。環境に対して繊細に反応するホタルは、静かな場所でなければ発光しないという。画面は、その跡をネガにおさめ、プリントしたもの。作品のコンセプトは西村さんが考えたとして、しかし西村さんはその画像を操作できない。

 西村さんはフォトグラム の制作が多い。もちろんカメラを用いて撮影することもあるが、印象的だったのは、シャボン玉の『水の影』(1999)、水の『水の記憶』(2002)、そして『発光』で、いずれもフォトグラム によるものであった。

 そして、今回の『ソフィア』の案内をいただいたのだが、一見何をしたものかわからなかった。ソラリゼーションをしたものなのか、何かの多重露光なのか、それともフォトコラージュ か。タイトルである『ソフィア』は一体何を意味しているのか。

 そこで、展示を見てみる。女性がこちらを向いてポーズをしているのがわかる。ただ、そこに重なる何かはやはりわからない。西村さんに伺うと、まずは女性の写真は、昔、西村さんがお願いしたモデルのポートレイトで、背景は森山大道さんの写真集『光と影』(1982)。ポートレートを写真集のページに挟み込んで、光を当てたフォトグラム である。

 そこに、たまたま印画紙を譲り受ける話があり、それを使って制作に取り組んだのだそうだ。印画紙はアグファ・ポートリガー・ラピッドで、以前は良く知られた印画紙だったという。ところが、印画紙を使ってみると、すぐ黒くなってしまい、どうにもならない。経年によるもので、なかなか思うに任せない。どうにか画像が出てくるまでには、かなり試行錯誤があったようだ。まるで、作品とするときに道具や材料の声を聞きながら仕上げていく匠の話があるが、西村さんのそれは、それを彷彿とさせる。展示は、ネガをプリントした階調の豊かさよりも、すれたりにじんだような、少しはかなげな影が残っている。

 意外だったのは、西村さんが触発された作家が森山大道さんだったことである。『LIFE』で見せた花の隅々までとらえた陰影は、まるで写真の科学の教科書を読み、また美術として扱われる写真を見ながら学んだように思えたからだ。実は、別の展覧会に森山さんがテキストを寄せている。「いわばぼくの写すストリートスナップとは対極にある世界である。」確かにそう思った。しかし、森山さんやともに写真を追求していた中平卓馬さんを見て、写真を制作しようと思い立ったというのである。『光と影』も、昔の西村さんを突き動かした一冊となっていたのだろう。

 そして、挟まれたポートレイト。それが西村さんの言う「ソフィア」である。写真を撮影し始めたとき、同じく写真学校で学んでいた彼女にモデルをお願いした。その女性は、ほほ笑みこそしないが、凛とした表情でカメラを見て、ポーズをとり続けている。その後、彼女の制作する写真のこと、撮影ではないときの仕種や会話が脳裏に残り、そして現実に、彼女を撮影したネガが手元に残った。西村さんは、そのときの記憶の彼女に「ソフィア」と名づけた。私たちは、そのみる女性を画像の上でした想像できないが、西村さんには自分の過ごした時間を見とおせるところに、そしてそれが屈折したり反射したところに、彼女の存在があるように思える。 

 その二つが重なり、画像となっている。これは、今の西村さんの記憶の痕跡と言えるのではないか。時間の一本の軸の上に、写真を始めるきっかけになったもの、勉強しながら通過していくものが、今から見れば俯瞰できる場所に西村さんが立っている。それは、今までの時間の中の一点の、そのうちの二つがただ重なっているわけではない。その二つの時間が、見ているこちらの時間へ貫かれ、今へ続いている。それは、西村さんの今までがそこにあり、これからを意識させる。しかし、それがどう照射されるかは、私たちの思うとおりにはならないことも、この画像は暗示しているようだ。

『写真の会』会報 No.70  2011.7.2

「白仁田剛のギャラリー巡り」より